紅白の不協和音は異常だった。パフォーマンスが良かったのは間違いないが、良しとしていいものか...?
このモヤモヤが晴れないまま2019年も終局を迎え、欅坂の一年がまた終わっていく。
今年の欅坂は決して良い年だったと言い切れる一年ではなく、寧ろ停滞と囁かれ続けることになった。キャプテンの菅井が”そう”口にしたのは9枚目シングルの選抜発表の時。
毎年のように波が激しいチームだが、今年も当然のように振り回された。8枚目シングルが発売されたと思えば、二期生が台頭し競争させ、センターは相も変わらず好不調の波が激しく、夏のアリーナツアー欠席も、欅の節目ともなった東京ドームで復活。そして9枚目シングルを発売延期まで。
そして、今回の本題でもある。その時を私は迎えてしまったようだ。
平手友梨奈に対する推しの思い。
この難題に向き合い続けて、3年以上の月日が経つ。初めの頃はいいことばかりだった。それも当然だろう。友人関係も同じで、最初は心地よく始めようとするし、己自身もそうであるように働きかける。そしてその時の彼女は、私を満たすに充分すぎるメンバーであった。
この従順な思いがぶれ始めたのは、2017年の夏頃。共和国2017を境に、彼女の態度は一変した。俯いては不安定なパフォーマンスを繰り返し、トークや冠番組でも出番は少なくなっていった。グループ活動では離脱や復帰の繰り返し。正直、年々不満は募っていくばかりだった。
しかし、点で彼女は「推しで良かった」。そう思わせてくれる姿を見せてくれる。共和国2018、東京ドーム二日目などがその最たる例だ。それを求めて、平手を推し続けていた。それでも、風当たりは強まるばかりで、普段の言動の矛盾や理解できないところが増えていき、私は次第に好きと嫌いの狭間を行き来するようになっていた。
本当に自分が素直に推したい気持ちはどこにいったのか、本当に自分は彼女を受け止めて大好きであり続けるだろうか。不安で仕方ない日も、ずっと平手が私の一番であり続けていたはずだった。
メディアの対応も疎かにし、公式アプリでも一人だけ撮影していないことも増え、上記に記したように番組の出演もほぼ無く(あっても発言はない)、メッセージやブログも音沙汰がない。当たり前にグループの一員としてやらなければならないことを、エースである平手がやらずに、許されている現状に、疑問を抱かない平手”推し”はいないだろう。
ライブで魅せてくれればいい!と言ってしまえばそこまでだが、それだけではもう私は堪えきれなくなっていた。普段やらなきゃいけないことも出来ない子が、大一番で活躍してオールOKになるわけがない。テレビ番組に出ても写真写りはいつも仏頂面で、やる気がないと思われてもおかしくない素振りもとってしまう。ほんとにグループのことを思っているのだとしたら、そんな態度は取らないと私は思う。それでも、ファンは何一つ不満の言葉が上がらない。そんなの、どう考えたっておかしい。
そんな一方でソロの活動は円滑に進んでおり、裏ではメンバーとの仲の良いエピソードが上がってくる。その笑顔や楽しそうな姿を表舞台ではあまり見せないというのは、何かしら理由はあるにしろ、説明がないと納得できるわけがない。余談だが田村と平手のコンビは、この点が謎である限り、一生好きになることはないだろう。
今日の不協和音の姿は、もう平手が平手じゃないようで。俺の好きな平手とは遠くかけ離れていて。でもパフォーマンスそのものは群を抜いていたと思う。しかし冒頭で述べたように素直に喜ぶことはできず、疑問だけが残って終わる。
こうしてぶれ続けてきた。耐え忍んでは最高のパフォーマンスを見て励まされ、勇気を貰ってきた。それでも、限界が来たんだと思う。どれほど良い姿を見ても、普段のやらなきゃいけないことが出来ていないことが頭によぎるようになってしまった。
平手を好きでいることはできるが、もう平手についていくことはできない。
それは、もう地獄の底までついていった私の中での解答だった。
純粋に平手を応援することができなくなった自分に対する答えが、明確となったのだろう。
平手推しと名乗るに、相応しくない思いを抱くようになった。そう感じた。
推し変というものと本気で向き合い、決断に至ったのはいつ以来だろう。
それでも、きっとこれからも平手に魅了され続けるだろう。だが、推しだと豪語するに達しないのは紛れもない事実だ。ビデオライブラリーは栄光を約束していても、心は止まってしまった。
この3年と半年間、平手友梨奈は私の一番でいてくれた、そのありがとうの気持ちを忘れず、
私の満たされたい強欲で身勝手な愛のバトンはゆっくりと、そっと、
田村保乃に渡された。