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クソ小説の捌け口

恋愛小説 「田村保乃の異聞録」 前編

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恋愛小説 「田村保乃の異聞録」 前編

「大阪府、枚方市。あー毎年やってるあそこの夏祭りですか」
 
とある何の変哲もない大学の講義の途中に、隣に座っていた三島先輩に大阪で毎年開催される夏祭りに行こうと誘われた。まぁ俺はこの夏祭りによく行ってるから満更でもなかったけどな。目的は他とは少し違うだろうし。同じっちゃ同じだけどな。

よく行っている理由はというと、夏祭りが行われる場所とは少し離れた、大きな欅の木の下が居心地良くてね。そこからうっすら見える花火が大好きなんだ。10年以上前に行った時に見つけたお気に入りのスポットでね。毎年、そこで花火を見ると、いつも俺の夏が始まる気がするから、嫌でも夏祭りに出向いている。
 
あんまり友達はいない方がいいんだが、時には二人で行くのも悪くはない。三島先輩はいい人だし、あの幻想的なスポットを紹介できるいい機会でもあるわけだしな。

ちなみに俺は「生田剛」って名前なんだが、そんなことより生粋のアイドルヲタクでな。某女性アイドルグループに最近はドハマりしていて、その中でも「田村保乃」っていうメンバーを推している。そして明後日の土曜日には握手会で会える。その翌日の日曜日は夏祭り。最高のムーブが俺の中では完成していた。

間の木曜と金曜は凄く長く感じたよ。なんてったって、文系の大学の講義なんて前列2割が真面目に聞いてて、真ん中付近6割が対して集中していない奴らで、後ろ2割がうるさいか寝てるかだしな。そして将来何の得にもならないような話を延々と聞かされるんだぜ。嫌にもなるさ。そしてそんなつまらねー大学に進学した自分にも嫌になるから、悪循環は止まない一方だよ。それも次の休日で吹っ飛ぶって考えると、それも込みでワクワクしてくる自分もいたな。

ドが付くほどくだらない二日を無難にこなした俺は、金曜の夜に握手会のための準備に取り掛かった。一人暮らしだった俺は、親や兄弟の目を気にすることもないから、音楽を垂れ流しながらマフラータオルや充電器などの必需品を鞄に入れ込み、着用していく服決めなどをしていた。

握手会当日、いつも寝起きの悪い俺だが、こういう日になるとコロッと起きて目が覚める。やはり趣味の持つ力は偉大だな。ようやく推しの田村保乃に出会える。そう思うだけで、生まれてきたことを奇跡に感じていた。


そんな奇跡が、この二日ですぐ更新されることも知らずに、俺は戸締りをして家を後にした。


握手会場は、俺の地元の兵庫のお隣の大阪。どうせ日曜日もお祭りで来るもんだから、近くの宿も取ってある。俺にとっては最高の休日になること間違いなしだった。目的地に着弾したはいいものの、あまりの人の数に嫌気がさしてくる。個別レーンもそんなに長くないといいが...

本命のメンバーとの握手は、昼前に一回。そして夕方に一回となかなかタイムスケジュールが組み立てにくい。彼女に言うことはというと「応援しています」や「いつも勇気を貰っています」などのありきたりな言葉しか考え付かなかったな。そんな俺が出した答えはアドリブだ。ぶっつけ本番だともしかしたら、いいフレーズが浮かんでくるかもしれない。頭の悪い俺でも、極限状態になると冴える可能性がある。そのあまりに平凡な脳に淡い期待を込めて、田村保乃レーンの最後尾に足を運んだ。

鞄の中に大事に保管されていた握手券を二枚握り、受付を越え、いよいよ初対面だ。緊張のあまり吐き出してしまいそうだな。いつも土壇場になるとどこかしら調子が悪くなる俺だが、期待していた頭の調子が悪い。処理が追いつかないんだ。目の前の奴らが「前にメッセージで言っていたこと褒めようぜ」とか言ってる些細な会話も、隣のレーンのメンバーが誰かってことも、握手終わった奴らがニヤけながら去っていく姿も、頭が理解しようとしなくなる。回転率が低すぎて何が起こっているか全くわからないほど、緊張していた。

気付けばもうすぐそこまで来ている。なんて言葉をかければ喜ぶだろう。この日何回も聞いたような言葉でいいのか?彼女の好きなことってなんだっけ。共通の話題ってなんだっけ。そんなこと考えているうちに、もう目の前のファンは四人しかいない。三人、二人、あと一人...見える。テレビ越しにずっと見てた大好きな人が、俺の視界を埋め尽くす。

「二枚です」という声と同時に、俺の頭は真っ白になり、繋いだ手の感触なんて忘れてしまうようで、自分の身体がそうじゃないようで...


「ありがとう!」

...

「どこから来てくれたん?」

相手が間髪入れずに質問をしてきた。えーと...
 
「ひ、兵庫のこ、こ神戸から来ました」

「そうなんやありがとうなぁ」

...

俺の目の前を、彼女が征服している。全部、俺の視界に映っている。
そう思いながら、彼女の顔をそっと見ると...

田村は、俺の顔を見ながら少し口をしかめた。




「お時間でーす」

その謎の静寂を破るかのように剥がしのスタッフが容赦なく俺の両肩を掴み捌かせようとした。

「また来てな」

彼女の言葉をまともに認識できたのは、最後の一言だけだったような気がする。あまり感じたことのない緊張から一転、訳の分からない時間を共にしてしまった。彼女からすると、数多くの一人なんだろうが、俺にとってはかけがえのない瞬間のはずだったのに。勿体ない。この引っかかった想いをなんとか振り切ろうと、夕方の部に挑もうと決意した。

近くのコンビニで軽食を済ました俺は、午後の部に向けて着々と準備を進めていた。次こそは想いを伝えられるようにと。何より一回目の握手よりは絶対に緊張はしないだろう。少しは慣れてやつが支えてくれるはずだ。そう信じ、運良く一部だけで当たった三枚の握手券を両手で握り、列に並んだ。

明らかに一回目よりはフラットな状態だ。冷静に周りを見ることが出来る。周りの連中が何を考えているのかもわかってしまう気になるぐらいには、気持ちは落ち着いていた。さて、いよいよ今日ラストだ。全てをぶつけないと...


「三枚でーす」

少しだけ長く喋られる。チャンスを活かさないと。あれ?午前の部と服が違う?惑わし作戦と来たか。どれもよく似合う女の子だな。いやそれどころじゃない。

「ありがとう~」

「あ、田村さん。あの、自分...」

伝えなきゃ、何か言わなきゃ...

「私服。よく似合ってますね!あの、浴衣とか似合うんじゃないですかね。へへ」

「えー、ありがとう。そう個別握手会初めてやからめっちゃ迷ってん。でも褒めてくれてめっちゃ嬉しい!」

そうなんだけど、違う。日頃エネルギーを貰ってるんだ。感謝の気持ちを伝えないと。

「いえいえ。なんか、なんでも似合いますよね。バレーボールにしてもシュークリームにしても...わたがしとか...」

「えー、褒められ慣れてへんから照れるー」

「タココプターとか、あとゲームとか。お人形さんなんか全部似合いそうで...」


「お時間でーす」


「え?ゲームの前なんて言ったん?」

「いや、そのまた来ます!」

何を言ったかなんて全く覚えていない。確かなのは、彼女に伝えたかったことを言えていないってことだけだ。結局その日は抜け殻だったな。大好きなメンバーを拝めただけでよしとしよう。明日は夏祭りだ。浴衣なんて似合いもしないから、いつも私服で欅の木に行く。三島さんも連れて行くつもりだったが、今日のひっかえは一人でしか取れないものだと思い、花火の前には解散することに決めた。

宿に辿りついた頃にはすっかり日は落ち、一日の終わりを迎えたようだった。しかし今日の握手会で気になったのは、田村と交わした言葉なんかより、よっぽど気になるのはあの無の時間だ。たった一秒ぐらいの時間が、永遠のように感じたのはいつ以来だろうか。彼女ののほほんとした表情がまた俺の頭を勘ぐる。ふとした時、携帯に一通の通知が入った。

田村保乃からメッセージが届いています。

これは公式アプリのメッセージ機能で、月額300円程度でメンバーのメッセージが届くといったようなシステムとなっている。メンバーによって送る頻度は違うが、田村はよく送っている方らしい。

開くと、今日の握手会の感想が述べられている。そしてまた通知が届き、

「明日は各所でお祭りがありますね!ほのもよく行ってたなぁ」

この通知をみて、自分が明日も予定があることを実感した。遅れて三島さんを待たせるわけにもいかないからな。握手会の前日ほどワクワクしないテンションのまま、俺は布団の中で考え事をした。寝る時も、今まで気にならなかった傷口が、少しだけ気になったな。あのしかめた顔には、何が込められていたんだろう。そんなありもしないことを考えながら、眠りについた。

夏祭り当日、16時に約束していたが、俺の怠慢なタイムスケジュールによって少しだけ遅れてしまった。着いては空腹を満たすために焼き物を食らい、当たりもしないくじを引いたり、人酔いしながら歩いたり、少々気怠そうにしていたのが三島さんに伝わったのか、早めの切り上げとなった。

「ごう、ちょっと調子悪そうだね。今日はこの辺にしとく?」

その言葉に甘え、三島さんと別れ、例の少し離れた欅の木に一直線だ。自分が酷いことなんて重々承知している。けど、昨日のことが忘れられなくて。

少しだけまだ明るい欅の木の下に辿りついた。その根元に腰を落とすと、また昨日のことを考え出した。かき氷にかじりつきながら、イマイチ腑に落ちない握手のことを振り返る。話せるもんなら木の幹に佇むカブトムシと語り合いたいもんだよ。まぁ思えば、そんな不自然なことでもないんだけどな。なぜなら、彼女は疲労も溜まっているだろうし、数多くのファンに対して一つ一つ丁寧に対応することも難しい。多少黙ってもなんら不思議じゃない。でも、だとしても、あの妙な時間には、何か意味があるような気がして。

そんなことを考えていたら、もう辺りは薄暗くなっていた。そろそろ花火だな。今年もこの位置から少しだけ見ることができる。つっかえているものもあるんだけどな。そんな気の迷いも吹き飛ばすように、花火の一発目が打ちあがった。

そんな灯りに、一筋の影が見えた。こんなところ、なかなか人も来ないって言うのに。何年か前に来た記憶もあるが...

「懐かしいなぁ。いつやったかなぁ」

見たことのある顔。聞いたことのある声。鮮やかな美貌。がっしりとした肩幅。大きく逞しい手のひら。浴衣が凄く似合う女性。一瞬、息が詰まるような感覚に陥った。まさか、彼女なのか?

俺はチキンだから声なんてかけられない。しかし、彼女が俺に歩み寄り...

「ここ、いい花火を見るには最適なスポットですか?」

「あ、どうっすかね。まぁ自分はよくここで見るんですよ」

間違いない。この聞き慣れた声質は、この瞬きすら惜しく思える可愛さは、


田村保乃に違いない。
 

目を疑ったよ。いや耳も疑ったな。でもまだ確信的ではない。彼女のプライベートを、邪魔なんてしていいわけもない。

「あぁ、あれですよ。実はここあんまり花火見えないんすよ。ちょっとしか見えないんすよ。だからそこまでオススメできないっす」

「あ、そうなんですね。じゃあなんでここで見てたんですか?」

顔を向けて質問してきた。やはりそうだ。俺の大好きな人。

「いや、あれです。昔からこの場所が大好きで」

「思い入れがあるんですか?」

やたら聞き返してくる。でも、ここは素直に答えるべきだろうな。

「実は、10年前ぐらいからここが好きでして、あんま綺麗に花火も見えないから人も来ないんすよ。一昨年とかは二人ぐらいいましたけど、基本的には一人なんですよね。あんま人ごみとか好きじゃないので、ここで見てます」

仮に本人だとしても、なぜかすらすら話せてしまう。昨日の握手会が嘘のようで、

「そうなんですね...」

そう呟きながら隣に佇む彼女は、少しだけ俯き、手に持ったうちわを唇に当てた。その小さなしぐさも、可愛らしくて。

「あの、なんでこんなところ来たんですか?あんまり人気もないですし、怖かったと思うんですけど」

彼女は、唇に当てていたうちわを、次は胸に当てて話す。

「実は、思い出の場所なんです。欅の木の下。何年前かは忘れましたが、ここで初恋をしたんです。一期一会ではありましたが、あの人のことが忘れられなくて...私が大事に持っていたタココプターが高い木の枝に挟まってしまって、それを取ってくれたんです。見知らぬ彼が。それが...」

...!数十年前にあった出来事だ。初めて俺がここに来た時に、女の子の小さいタココプターを取ってあげた記憶が断片的に残っている。まさか、この話が事実だとするなら...

「それ、10歳ぐらいの時ですか?」

「はい。そうです!」

「その取ってくれた場所って、あの木の枝ですか?」

俺はそう言いながら、左上の隅にある小さな小枝に指を指した。

「そ、そうです...」

彼女は驚いた表情で俺のことを見つめてくる。この出会いは、十年越しのこの出会いは、聞こう。今しかない。

「お名前、伺ってもよろしいですか?」

「田村保乃と言います。...っ!」

彼女は何かを閃いたかのように、目を見開いた。

「まさか、昨日握手来てくれてた方ですか?」

「そうです。レターで”ごう”という名前で送らさせていただいていた者です」

彼女の曇った顔が、一瞬で晴れやかに変わり、

「私、ごうさんが昨日来たとき、少し考え込んでしまったんです。見たことがあるというか。どこか懐かしい感触だったというか。昔この場所で手のひらに馴染んだ感触と、どこか似ていて。考えて考えても、答えは見つからなかったです。質問させてください。ごうさんが、十年前にここで私にタココプターを取ってくださった...






私の初恋の相手なんですか...?」





俺は返答ができなかった。事実だと思えば信じられない邂逅だ。まるで彼女が自分のモノのようで。こういう時、なんて言えばいいんだ?頷くだけでいいのか、それで解答になっているのだろうか。どうか俺の不器用ながらも最大限振り絞ってもアンサーを返すことが出来ない。
 
「十年越しの恋だとしたら...私...」

田村が俺の裾を掴んできた。この時点で既に胸の鼓動が鳴りやまない。極め付けには下から上目づかいをしてきやがる。この可愛さ、頭一つ飛んでやがる。

「アイドル...として、、じゃなくて。その。人としての田村さんもすごく魅力的で」

何を口走ってんだ俺。いきなり意味のわからない言葉で褒めても仕方ないってのによ。

「あの、その、あれです。つまり、好きです!」

大きな花火音にかき消されるかのように、力弱く発した一人のファンからの彼女への想い。賑やかな世界から少しだけ離れた欅の木の下で、
 
「私も、あなたのことが好き”だった”んです。よろしければ...」

田村はそういうと、俺にLINEのIDを提示してきた。いいのか?アイドルなんだぞ?恋愛禁止なんだぞ?いや、待てよ。これはでも人生で二度と来ない千載一遇のビッグチャンスだ。掴みとらないわけにはいかない。いや、でも彼女にもアイドル生命ってやつがある。あぁもう!この状況ってカタカナでなんて言うんだっけな。忘れた、いやどうだっていい。どうする...

「ええと、はいお願いします」

俺がそう答えると、最後の一発が打ちあがり、彼女は一礼だけして、この場を立ち去って行った。その姿は、アイドルなのに一般の人と連絡できる環境にしてしまった罪悪感に追われているようで。同罪の俺は、これからどうやってあなたと接しながら生きればいいのかわからないまま...


あの激動の土日から、イマイチ頭が回らない。朝起きた時もどこかしらイガイガするし、大学の講義の内容なんて右から左に抜けていく。帰り道も曲なんて聞いていないのにイヤホンをつけていることもしばしばあった。そしてことある事に、LINEに登録した一言も交わしていない彼女とのトークを開く。その繰り返しの日々。こんな空虚な世の中で、どこか退屈に感じていた人生が一転、物凄く窮屈に感じるようになっていた。今、あの人は何をしているんだろう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「保乃!保乃ーー!!」

.........?

「保乃!どうしたん?楽屋でボケッとして!そろそろ収録やで!」

「あぁ、大丈夫。わかってるで」

適当に相槌を打ったけど、今日の収録内容なんかまるでわかってへん。井上が優しく教えてくれたけど、多分「欅って、書けない?」の収録かな。

それでも番組中は、案外忘れることが出来た。みんなが楽しそうで笑ってるから、自分もつい乗らされちゃって。笑うんが好きやから、アイドルしてる時はのめりこむことができる。でも、一般の人と繋がってしまった事実は、ずっと私の後ろから追ってきていて、まるで自分の影が訴えかけてきているようで。悪いってことはわかってんねんけど、ごうさんともう一度会わないと、この心の端のソファーが空かない。今日の夜に、メッセージを送ってから、ごうさんに一度だけ掛け合ってみよう。このまま一人で考え込んでても埒が明かん。

そう決心した日の夜、私はご飯を喉に無理やり通し、彼に送るLINEの内容を考え込んでいた。正直、このまま何も言わずに自然消滅してもいいもんやと思ったり、相手のLINEを待ち続けてもええんちゃうかって思ったりしたけど、私は自分の言葉で伝えることを決意した。

日付が変わってしまう。こんな夜遅くに送るなんて常識の範疇にない。やけど、もう決めた。

「夜遅くにすいません。もう一度会ってお話がしたいです。来週の8月29日にはまだ関西に滞在しています。よろしければ、検討のほどをよろしくお願いします」

送信を押してからは、携帯を開くのすら怖い。私は部屋の電気を消して気を紛らわした。いっそ、既読無視された方が幾分か楽かもしれない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


それは、適当に動画をあさっていた時に、唐突に届いた。どちらも牽制しあっていたが、痺れを切らして送ってきたのは彼女の方だった。ちょうど8月28日は欅坂の全国ツアーで、その翌日はバイトも休みにしていたし、学校も講義が入っていない。これは、話し合うには絶好の機会だ。

「お忙しい中、ありがとうございます。8月29日は私も予定がありませんので、よろしければお話をしたいと思う所存であります」

堅苦しい言葉で返信をしたが、相手もすぐに返してくれて、場所やバレない為にどうするかなどの対策を練った。ライブどころか、そっちの方が気になってしまうじゃないか。というか、何を話すことがあるんだろうか、まぁあれか。どうせ忘れてください!とか言って終わるんだろうな。まぁいいや。夢ならもう見せてもらったしな。ここまで来たら、思いっきり言いたいこと言ってしまった方がいい。その方が後悔もしないだろうしな。

28日のライブは一瞬のように過ぎ去っていった。ライブ中の彼女を見て、また自己嫌悪に陥る。田村保乃のアイドル人生を奪ってしまうかもしれないことをしてしまった。行き場のない感情が、ライブを心から楽しむ気持ちと交錯して、わけがわからなくなったね。でも、そんな悩みの種なんて明日には片づけられる。はずだと信じて、そのモヤモヤを家に持ち帰って、明日の予定を確認した。

俺たちが約束した場所は大阪ではなく、兵庫にした。都会過ぎると色々厄介なんじゃないかって話なんだが、話し合う場所は意外にもカラオケルームになった。いや、カラオケルームは会社の極秘情報とかの密約とかで結構使われたりする場所だろ?だからカフェとかファミレスとかよりは、安全性が案外あるんじゃないかっていう安直な考えで決まった。既にカラオケ前に来ている俺は、彼女からのLINEを待つばかりだった。田村は週刊誌の奴らに狙われているわけでもなければ、俺も情報一つ漏らしていないため、恐らく付け狙われることはないだろう。少なくとも今の段階では、ほぼ大丈夫と言っても過言ではない。

向こうからマスクを着け、フリフリのコーディネーションでこっちに向かて歩いてくる。LINEでも聞いていた服装と一致していたので、田村に違いない。あ、冷静を装っているが、推しの彼女と待ち合わせしている時点で少し浮かれていたよ。あと緊張から来る腹痛でトイレに何回も駆け込んだな。そして今まで気にしていなかったファッションも少し気を使おうと考えたな。結局、変わらずそこらにいるモブみたいな私服になったけどな。

「ごうさん。少し遅くなってしまいました」

「あ、大丈夫ですよ。予約はしてあるんで、入りましょうか」

二人にしてはそこそこ広い部屋に入ることが出来た。ドリンクを注いで部屋に戻った俺たちは、今後のことについて話さなければならない。それでも自分から切り出すことができないんだ。いや実際、推しと二人でカラオケルームに入ってるんだから、冷静な判断ができないに決まってるだろ。田村から話しかけられるのを待つんだ。受け身の男性なんてモテるわけがないけどな。

「あの、ごうさん。私、迷ってるんです。このままアイドル続けてごうさんとの関係を切るか。アイドルを辞めて、あの...違う道を進むか...」

「あぁ。でも僕はできれば田村さんにアイドルしててほしいんです。あの、あれです。アイドルの田村さんすごく好きなんですよ。チームに対して真摯に向き合って、楽しそうなあなたが好きで...」

どうしろっつんだよ。そんなのうわべだよ。できるもんなら田村を彼女にして一緒に過ごした方が幸せに決まってんじゃねーか。いや、そんなこともない。やはりアイドルというフィルターがあるから彼女のことを愛していたのかもしれない。マジでどうすりゃいいんだ?

「そう...なんですか」
 
彼女が言葉を詰まらせた。俺が聞き返そうとしたその時、

「わがままですけど、決心がつくまで、まだ時間がかかりそうです」

田村がぼんやりとした答えを俺につきつけた。

「心が決まるまで、どんだけ時間かかってもいいんで、自分は待ちますよ」

恐らくドヤ顔を決め込んでこのセリフを吐いたと思うが、この後は地獄の沈黙が続くばかりで、結局歌なんか一曲も歌わずにその場で解散になったな。推しメンとの二人の時間は思ったほどお花畑ではないことがわかったよ。緊張してガチガチになるし、相手もよそよそしいし、あやふやなまま見切り発車で来ちまったもんだから、お互いどっちつかずになっちまうし。曖昧なまま終わったこの日は、田村に対してLINEを送るわけでもなく、何も考えずに寝ることにした。今更どうしとけばよかったなんて思い出そうとするとキリがなくなっちまうぐらいには、今日の自分は自分じゃないようで酷かった。彼女のアイドル人生を徐々に狂わせてしまっているようで、自分の人生を華やかにする犠牲は、あまりに大きく、そして多くの人を絶望させるというのに。


そうだ、わかった。自分の枠にピッタリはまる答えを探せばいいんじゃないか。彼女と出会うことで、わかることはたくさんあるはずだ。会おう。

そうと決まれば田村にすぐLINEをした。明日から二日間連休らしいから、その二日間会えるかどうかを提案してみた。案外許諾は早かったよ。相手も同じ気持ちなのかもしれないな。まぁ勝手に思い込んでいるだけだろうけど。一日目は大阪の海遊館、二日目は神戸巡りをすることにした。正直に言っていいか。めちゃくちゃ浮かれていたよ。あの子以上に可愛い子はこの世にいないと思うからね。そんな推しと二日連続でデートなんて気が狂っちまうよな。いや、デートと捉えることはできないんだけどな。だって田村との間に生まれた隔たりがなんなのかを知るためなんだから。


一日目の海遊館、待ち合わせ場所で会ってからは少し緊張感があったが、中に入ると少しほぐれたな。それもそう、田村が楽しそうな姿を見せていたんだ。何か物珍しいものを見たわけじゃないけど、ことある事に感動していて、

「えぇ!このジンベイザメめっちゃ可愛い!」

「水槽なんでこんなでかいんですかね?」

「なんか自然を体感しているようで、気持ちいいですね...」

こんな他愛ない会話をしてくる。こうやって田村が笑顔で喜んでいるだけでよかった。それさえあれば、他なんてどうでもよくなってしまった。生命が宿された生き物が伸び伸びと水槽の中で、生きているだけで、なんでこんな人は喜びを感じると思うか、今の俺ならわかるね。目の前にその対象がいるからな。生命の力は無限大だな。もう自然と田村と会話できている自分がいる。好きというものを経て生じた利は、すべてのことを棚に上げる。

「あの、このサメのストラップ、可愛いですね」

田村が海遊館のグッズコーナーで足を止め、そう呟いてきた。

「あぁいいですね。自分もせっかく来たんだしそれ買おうかな」

「お揃いなりますね。何につけるんですか?」

「鍵とかなんもついてないですし、鍵にするしようかなと」

「私も同じやつ買おうかなぁ。じゃあキーホルダーにしません?」

流れのままお揃いのキーホルダーまで購入しちまったよ。しかも同じやつ。おい、大丈夫なのかこれ。本当に手が届く範囲に来てるんじゃねーのか。

午後は海遊館に住む生き物に餌を与えたり、軽食を愉しんだり、生命の慈しみを感じ取ったり、この日は変に充実したな。前の食事会が嘘のようだね。馴染みがない地で、触れたこともない感覚と、気づけなかったはずの感情に出会っている。これは、田村が欅坂で感じた想いと通じるものがあるのだろうか。現実に戻りたくないな。今の俺たちは、罪を重くしていることなど忘れているから。その瞬間にしか触れ合えることのできない生を実感したい、その気持ち一つで。

帰り道、もう日は落ちて夕暮れ時だった。

「あの、ごうさん」

急に左隣の田村が、歩きながら話しかけてきた。

「せっかくご一緒にこんな楽しい時間を過ごさせていただいたわけですし、なんか変化というか。目に見える、うーんなんて言うんやろ...」

「変化?自分も、来る前と帰る時とで同じ気持ちじゃないのは確かですよ」

「いや、その。うーん...」

田村が顎に手を当てて考え出した。何が言いたいんだろうか?

「あ!呼び方とかそういうの変えないですか?」

突如、閃いたように目をパッと開いてそう提案してきた。いい...のか...?

「あぁ、いいですね。自分はごうさんのままで大丈夫ですけど」

「呼び捨てとか、ダメですか?」

ヤバい。いくら人気がないとはいえ、心臓の鼓動が止まらない。ん?心臓の鼓動が止まらないってどういう意味だ。止まったら死んじまうぞ。いやまて今はどうだっていい。

「全然!オッケーです!自分はなんて呼べばいいでしょう?」

「保乃でええで!あっ!タメになってもた..」

そういうと両手を口で覆い隠して、そっぽを向いた。あざとさが出てるな、ふっ。無理だ。限界だ。めちゃくちゃ可愛い。

「どうせなら、タメにする?」

あーあ、調子に乗って言っちまったよ。そうなんだよ。俺は自分から進んで物事に取り組まないが、環境や状況、そして他人から言われたこととかはすっげぇ進んでやるんだよ。真面目が故の厄介な性格だろ。

「ええで。じゃあ今日からごうって呼ぶな...//」

照れ笑いしながらこっちを見つめてそう言ってくる。待ってくれ。このシチュエーションは、男はどうすれば正解なのか教えてくれ。

「オッケー!今日はありがとうな!」

とか言って終わりだよ馬鹿野郎。まぁいい、明日がある。今日のホームはあっちだったけど、明日は神戸だから俺の主戦場だ。アウェイでドヤ顔決めれるほど度胸のある男じゃない。

この日は本当にここまでで終わって、次の日に備えることにした。メッセージアプリを見たが、保乃はいつも通り、アイドルをしていた。少し傷が抉れるようだったから、俺は彼女のメッセージを解約して、眠りについた。


二日目、今日は神戸巡り。とは言っても神戸と三宮を散歩してたら終わるだろう。ちょうど神戸のハーバーランドってとこにはビアードパパがある。シュークリームが大好きだって言ってたから、ちょうどいい機会だ。

昼前に集合時間を合わせていたが、二人とも予定より早くついていた。彼女はかなりタイムキーパーが向いているらしく、時間にはきっちりしているらしい。

いつも出会うときは緊張しっぱなしだったが、もちろん今日も会う時は緊張し放題だ。

しかし昨日とかなり違うところは、お互いの距離が少し近いと思ったことだ。会ってからすぐに会話できたし、何せ最後に話したタメと呼び捨てはかなり大きなポジティブ要素となったと思ったよ。俺なんて生まれてこの方、女に呼び捨てなんて一回もなかったんだぜ。初めてを推しのアイドルとだなんて、一ヶ月前の自分に言ったら困惑どころの話じゃないだろうな。

「ハーバーそない行ったことないけど、結構広いねんな」

「まぁ、割といろんなとこあるからな。ちなみにビアードパパが地下にあるらしいよ」

「めっちゃええやん、おやつの時間にでも行こうや!」

よっしゃ乗ってきたぞ。まずはフードコートでお昼を済ませることからだな。空腹では考えることもままならない。五階にあるフードコートまでエスカレーターで上がり、一先ず端にある席を確保した俺たちは、一息をつき、各々好きなお昼ご飯を選びに行った。

席に戻ってきたときには保乃は既に座っていて、白菜がふんだんに使われているラーメンを持ち運んできていた。俺はうどんだったけど、麺類という中途半端なニアピンに少し嬉しくなっていた。こんなんで喜ぶなんて小学生じゃないんだから。

「ほんじゃ、お腹空いたし食べよか!いただきます!」

「いただきます!」

保乃につられたように手を合わせ、麺をゆっくりすすった。あぁ、そういうば咀嚼音ってやつが昔から嫌いでね。喋っていない時の彼女から聞こえる咀嚼音で興奮することはなかったなって当たり前か。でも、一口目食べた後の口に手を当てて「おいひぃ」って言ってきたのはすっげぇ可愛かったよ。あと、少しだけ跳ねていたのも可愛かったね。今日の昼ごはんはいつも一人で食べている時より数段美味しく感じる、それは保乃っていう最高のお供え物があるからなんだろうな。

「美味しかったなぁ。お腹満たされたし、ちょっとだけこの辺回る?」

「いいね、じゃあとりあえず上の本屋とか見に行く?」

笑顔で快諾してくれたので、すぐに上に向かい好きな本を見て笑いあったりした。二人とも馬鹿だから、意味の分からない単語とか見るとなんなのか予測して、答えを携帯で見て違ってたり合ってたりしてふざけあったりもした。トイザラスで子供向けおもちゃを見て童心に帰ったり、洋服屋で服選びしてる俺にセンスがない!と少し馬鹿にしてきたり、ゲームセンターで取れもしないクレーンゲームでお金を溶かしたり、幸せで幸せで仕方ない時間を過ごしていた。

「気づいたらもう日が暮れる時間だな。そろそろシュークリーム食べにでも行く?」

「ええな、私もそろそろ食べたい頃合やってんな。と決まればはよ行こ!」

少し早歩きの保乃にゆらゆらついていくと、お目当てのビアードパパとやらが見えてきた。しかしシュークリーム一つ200円以上ってなかなか高いもんだぞ。

「なぁごう、一緒に何が食べたいか指ささへん?」

なんともカップルみたいなことしてくる女だな。まぁアイドルの頃から見ててあざとそうなのは知っていたが、目の前でやられるとあざといだなんて感想は一つとして出てこないな。それより先に全ての言動が愛おしく思える。

「おっしゃいいよ。せーのでいくぞ」

「わかった、んじゃ行くで!」

「せーの!」 「せーのっ」 
 
お互い紙袋に包まれたシュークリームを持ち、軽食用の丸テーブルの席についた。すると保乃がまだ笑いながら、

「全然数字合わへんし、そんで全く違う種類やし、やった意味なんなんほんま笑うわ!」

爆笑しながら腰を落とした。保乃は2番のカスタードクリーム、俺は5番のフォンダンショコラとやらを選んだ。

「いや、今の俺の口はショコラ欲してたから仕方ない仕方ない」

「絶対パイシュークリーム選ぶって思うやん!」

「いやでも、あれよ保乃。5を逆さまににてみて。2になるっしょ」

「そんなん言葉遊びやん!!こじつけがましいし、しかもならへん!」

「いや5を逆にして鏡みたいに逆さまにさせたらなるって!これ2 to 5の法則じゃない?」

「聞いたことないわそんなん!」  

お互い笑いの絶えない空間だった。夢ならば覚めないでほしい。いつの間にか普通のリア友と喋るノリで大好きなアイドルと話してたな。地下で談笑してたらもう20時を過ぎていて、エスカレーターから上に来ると、辺りは既に暗くなっていて、遠くでは一軒家やマンションから灯りが照りつけられているのがわかる。

「なんか今日はえらく笑い疲れたよ。保乃のおかげで」

「保乃も久しぶりにめっちゃ笑ったわほんまに。なぁなぁ」

そういうと俺の肩を大きな手で二回ほどタッチしてきた。ここで言うのもなんだが、田村保乃の手の大きさは性癖の一部でね。これだけで興奮しているだなんてこと見せるわけにはいかないよなとか、タッチされた一瞬のうちに思ったよ。くだらない必要のない話はここまでにしよう。

「夕ご飯も食べて帰らへん?」

「明日仕事大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫。明日は大阪で仕事やし、なんやったら...」

ほんの少しだけ間を空け、

「ごうの家とかで泊まりとか全然大丈夫やけど...」

急接近もいいところだろ。もちろん心の中では「喜んで!!!」と叫んだよ。でもそうだな、俺は大学生で一人暮らしをしてるんだが、ワンルームだぞ。勢いか、これって流れってやつか。いけるな。よし快諾するように見せるな、許諾の精神だ。

「ぜ、全然俺はいいよ。保乃が大丈夫なら」

保守的な言葉すぎるだろ、失敗か。いやでもこの雰囲気なら乗ってくれるはずだ。

「じゃあ、そうしよ!」

完全に流れのまま決まってしまった俺の家の泊まり。根は真面目な性格だと自負しているんだけどな、家はこまめに綺麗にしてるんだよ。だからその辺の心配はない。自炊に関してはそうだな。炒飯でいいだろ。ほら、ライブの時に井上が作ってたって言ってたし。あ、でもそれを越えることはできないかな。まぁいいや。行くと決まったんだし、ゆっくりさせてやらないと。あれ、風呂とかどうするんだろ。着替えないんじゃないのか?タオルとかはあるにしろシャンプーリンスは人の肌に合う合わないあるだろ。布団は客に出す用があるからいい。

「そういや保乃、お風呂とかどうするの?着替えないんじゃない?」

「着替えは一応あんねん。大阪戻る予定で準備してたし、お風呂はなんか悪いから、銭湯とか行かん?」

「あぁいいな」

会話と時間の流れがつりあっていない。まるで言葉が時を逆らっているようで、どこか時間の進みが早く感じた。俺たちの会話は儚くもない、ゆったりとしたモノだというのに。

銭湯は月の湯船ってとこがあるから、そこで一日の疲れを癒やした。自炊するつもりだったが、夕食もその銭湯に食事処があったから、無難に定食をさらいあげた。身体の傷は癒え、エネルギーも十二分に蓄え、後は家で眠りにつくだけとなった。

俺の家は神戸とはいっても、かなり下町の田舎でね。対して綺麗なところでもない。それでも家に向かう途中に保乃は「凄いレトロな雰囲気で、結構好きやなこのセピア色が似合いそうな街中」とか褒め言葉として受け取るべきか微妙なことを言ってきた。まぁその通りでこの町中にカントリー調の音楽とか流れていたら似合いそうだもんな。

なんて思っていたらもう家のドアの前にいた。さりげなく鍵を開けて、彼女を家に招いた。

家に帰ってからは、大した時間はなかったし、二人でゆったりとテレビを見ながら携帯をいじってたな。やること全部終わったし、後は就寝に至るだけ。家の中では外で馬鹿してるよりお互いよくわからない緊張感があったんだよ。もうすっかり夜は更けてきたし、生産的な会話一つしなかったな。

保乃がおもむろにテレビのリモコンを持ち、電源を落とした。すると、

「なぁ、ほんま今日はありがとうな。私、自分がアイドルやってこと忘れてしまってたけど、楽しかったんは事実そうやった。現実に引き戻してしまうようやけど、これから私たちどうしていくんやろ」

「あぁ、そうだな。俺も楽しかったよ。今でも禁忌に足を踏み入れているのはわかるんだけど、まぁその。答えっていうのかな。探してたけど、あまりに濃くて凝縮された時間で、頭の整理なんてできなくてな」

俺の人生の中で1.2を争う日だったのは間違いないが、それでもやはり、影は最後まで消えない。結局型にハマる”答え”ってやつも、見つからず終いだ。

「ごめんな、いきなりこんな話切り出して。でも、そろそろ結論出さなあかんなって思ってな」

保乃はそういうと、立ち上がり少しずつ俺の方に歩み寄る。

「今日のごうは、アイドルとしての保乃じゃなくて、一人の女性としての保乃と向き合ってくれてた気がすんねんな。勝手な思い込みかもわからへんけど、温かかってん。それは、あの約束の場所で再開した温もりにも似たなんかでさ」

そう呟きながら、俺の隣にしゃがみ、目と目で見つめ合った。

「感じ取りたいって思うんやんか...ごうのこと...」

「...........」

言葉一つ出てこない。いつの間にか俺の手をギュッと握りしめている。顔がほぼ0距離だ。それは言い過ぎたが、至近距離にいる。パジャマ姿で、完璧にメイクされていなくても美形な彼女に酔いしれる。

「あかんかな...ダメなことなんかな...」

ここで、一線を越えるわけにはいかない。もう俺の視界にいるのは、アイドルとしての田村保乃じゃない。それだけはわかる。わかる。でも状況はわからない。正しい判断がままならない。

欲望にまみれた俺は、保乃の顔を覆いつくして前に垂れている髪を左耳にかけ、よく顔が見えるようにした。テレビでいうと舐めるようなカメラアングルで、保乃のうなじと無駄のない顔を眺める。

顔はすぐそこにある。田村保乃はすぐそこにいる。でも...ダメだ。

「いや、ごめん。わかんないと思う。何がわかんないかわかんないけど、何か盲目になっちまうような気がして。ごめん」

そう言い放った俺は、顔を真っ赤にして保乃から少し離れて布団の中に入った。相も変わらず逃げを選択した俺は、もう彼女の顔なんて見れない。

「ごめん、私のしょうもない気の迷いで、ごめんな」

謝りたいのはこっちだよ。もういい。寝て忘れたらいいだろう。明日の朝には保乃も仕事なんだから、一旦保乃のことは忘れよう。


心の中でおやすみ。と呟いたその四文字には、重い意味があることを知りながら。星も月も雲が覆い隠すように。もう心は全てが空っぽだ、ただ時間が過ぎてしまえばいい。


保乃がすぐそこにいる、そんな地球。想像よりももっと...

  
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